昭和43年11月22日 夜の御理解
                          末永静行(№43-183)



先日、ある会合で話が出ていたんですけれども、とにかく信心が分からなければいけないと、勿論信心が分からなければいけません、本当に信心が分からなきゃいかん、おかげおかげというて、御利益ばっかりいうてはならん、信心が分からにゃいけん、それはもうそうどころじゃないですけれども、また、ある人は、信心、信心と言うたってね、おかげを頂かなければ信心のは分からん、やっぱり御利益を頂かなければいけんと言う二つの説が出たんですよね、私もそれはどっちもそうだとこう思います、けれども、やはり、本当にあの、神様のおかげとやっぱ感じられるおかげを頂かなければですね、いかにも信心、信心と言うて信心が分かっておるようであって、高者になっておるだけで、本当の信心の真身と言うかね、真の味わい、いわゆる、信心の味わい、真身と言う、信心の味わいと言うものが分かっていってなかったら、詳しくなっただけじゃ信心が分かったとはいえない。
信心が出来ているという事はね、信心しとれば一年一年有り難うなってくると仰るように、果たして一年一年有り難うなっておるかどうかという事です、ね、そしたらその時に私が頂きます事が、あの、おかげを頂かなければならんという事も間違いではない、信心が分からなければならんという事も間違いではない、けれども、確かに御利益は大変頂いても、おかげを頂いても信心が分からんで進んだと言う信者もたくさんある、と言うて信心がいかにも分かっておるようであって、それは大変、それこそ、和尚のような事を言いなるだけであってから、その、その私生活を見ると喜びがあっておると思われないような人もたくさんある、そこでですね、結局分かる事は、ねばならない事は、日にちの中にどれほどあれもおかげこれもおかげとおかげと言う実感が頂けれるようにならなければならない。
私は、あの、お取次ぎをさせてもらう時に、ね、例えば右になっても左になっても、この人がはぁー神様のおかげだなあと思えれるようなおかげを頂かせて下さいと言う願いをいつもするんです、ね、この人が願っておる事が例え外れてもです、はぁーやっぱり神様のおかげだなぁとその周辺におかげと思わなければおられんもののお繰り合わせを頂かせてください、私はそれだと思うんですね信心とは、そこでならお互いの信心をです、なら一日なら一日の自分の信心を思うてみて、今日一日の内に何べん有り難いなあと神様を感じるということ。ね。
信心が分かって行くという事はね、その、本当に心から沸いてくる有り難いと言うものに触れる触れて行くという事なんです、信心が詳しゅうなって行く事でもない、と言うて、ならお願いをして御利益をよう頂く人もありますけれども、ね、お徳の高い先生の所ではそう言う例がとてもあります、信心は分からんけれどもおかげを受けておるという訳ですね。
今、八幡の教会の古いご信者さんが娘さんがこちらへ縁についてきてある、ちょっとノイローゼ気味で、あの、お母さんが看病に今来てあるわけなんです、もうここに毎日日参されるようになって一週間ぐらいなるでしょうか、おかげで先生、昨日、ぜんぜん外に出ないと言う病気なんだそうですね、外に出きらない訳なんす、ね、だから、あの、自分ではどうもない、どうもないと言われる、そのどうもないと言う事が実は悪いのだと、その証拠には外へ人と他人と顔を合わせる事が出来ない、外に出る事が出来ない、先生それが昨日から、お母さん少しづつ外へ出る稽古をさせて頂こうかと、あの、バスの定例所まで行ってみようかと言うて、昨日、先生、初めてバスの定例所までよらせて頂きましたというて今朝からお礼に出てきたんですけれども。
その方のお話を聞いておりますとですね、八幡の初代なんかと言うのは非常にお徳の高いお方だったらしいんですね、もう本当にテキパキとして、その、いわゆる、おかげをもう渡されたらしいんです、と言うて、なら、そのように長い信心をしておられるけれども、そのおばあさんのお話を聞いておると、やはりそう言うおかげを受けた事があるもんですから、ね、合楽の話を聞いて、合楽にみえておられますけど、そのおかげ、やっぱりお徳の高い先生のところでなからなければ、その、おかげは受けられんと言うふうに、まあ、ここがお徳を頂いとる訳でもないけれども、まあ、人に聞かれてからお参りをしてみえとるわけなんです、ね。
何十年信心をしておられますけれども、信心が本当に分かっておられると言うふうには感じられないのですよ、ね、ただそう言う例がいくらでもある、そこで、やはりおかげも頂かなければならんが信心も分からなければならん、ならここの信心が分かってござると言う人がです、果たしてどれだけ日にち有り難いと言うおかげを実感しておるかと言うとただ詳しゅうなっておるだけと言う人が多いのです、人の前で堂々とお話ができるようなおかげは頂けておっても、その真身というものには触れてないと言うのです、そこで、私共は日にち信心の稽古をさせて頂くという事は、ね、もう実感して有り難いなと、神様の御守護を頂いておる証拠だなと、それは痛かっても、痒かってもそれを感じられるところのおかげを頂く事が第一だと言う事になるのです。
今も御祈念前に原さんがお届けをされますのに、丁度昨日からでしたか、千恵子さんの所へ娘の所へ行ってあったんです、まあ、向こうへ行けば色んなおかげも受け取るけれども、色んな難儀というものを聞いてくる訳ですけれども、それを聞かせて頂きながら一つ一つがおかげと実感しておられるのです、それは千恵子さんおかげじゃないね、それは千恵子さん神の声と聞いたらどうねって、お母さんならここはこうと、自分のその実感しておられる事、有り難いと思うておる事を、それはそう言うものは、お母さんそうねと言うて、その次の行動に移っていか、、千恵子さんが行きよる、もう本当にたまがるようなおかげを受けておる。
昨夜は、あちらへ泊まられて、お夢を頂いておられるのでも、その、わらびのお知らせを頂かれたと言う、わらびのお知らせは山焼けてまた燃えずるわらびかなと言う御理解を頂いた事あるのですけれども、この、言うならば山焼けてという事は山という事は修行だろうと、もう本当に大変な、まあ、内々の、まあ、言うならば争いでしたですね、いわゆる、貝のお知らせは争いごと、喧嘩といったような時、もう、それこそ、親子兄弟がちょっとした事から、まあ(          )ような結果になった、けれども、その後の信心がおかげで出来たおかげでです、山やけてまた燃えいずるわらびかな、それから燃えいずるところの信心、それから、今までかつてなかったおかげを千恵子さんが頂いておる姿に触れてきてです、夢に頂いたそのことを、まあ、お届けをしておられるわけなんです。
帰りも、もう先生、電車に乗らせて頂きましたら、あんた何年生ねって聞いたら四年生と言う子供達がたくさんぞろぞろ乗ってきた、先生、どうした事でしょうか、子供達がドアでは元気一杯で利きとして電車に乗ってきたのを見たら心の中にもう込み上げるごと感激が湧いてきたといわれる、もう、言うなら、昨日から今日にかけてずうっとあれもおかげ、これもおかげと例えば訳もない事に有り難いものを感じておられる。
私は信心とはそれだと思うんです、ね、信心とはそれなんだ、私共でもテレビをみとって、例えば相撲、今日ちょっと見せてもらったんですけれどもね、あの、もう本当に普通で言うならそこに感激が湧くところじゃない、そう言う言葉で胸一杯になる事じゃない事の中にです、もう胸が一杯になるような感動を覚えるです、これはテレビを見よって何回も感ずるか分かりません、ね、新聞を見よってもそこが悲しい事でもなからなければ涙の出るような事でもないのにです、涙がこぼれてくる事がある、私は信心とはそれだと思うんです、ね、だから、そう言う信心をね、お互い身に付けて行かなきゃいけんです、ね、おかげも受けなきゃならん、ね、信心も分かって行かなきゃならん、ね、だから、その信心が分かって行きよる証拠と言うのはです、私の心の中に、ね、それこそ訳もないことです、ね、訳もない事にでも感動する、喜びが沸いてくると、そこにいつも神様の御守護を受けておることを身近に感じておるからです、ね、中には普通で言うなら腹の立つこともあろう、一緒になって悔やまんならん事もあろう、けれどもそう言う中に、それはおかげじゃないのうといえれる信心なんだ、ね、そう言う信心を身につけて行きたい、そう言う信心が育って行きよるなら、いよいよ私はおかげを受けると思うのです、ね。
どうぞ、信心が分かったと言うて詳しくなったでは駄目です、もうこげなん時に親先生ならこげん言いなさるといったような事を非常に良く分かっておる人があります、確かにそうです、けれどもその人はただ合楽の信心が詳しゅうなっただけで、なら本当に心に真身と言うものがない、信心と言う味わいというものを日にち、まあ、言うならヴぁ刻々でも感じておるといったような者がない、そう言うおかげの頂けれる信心とはど言う言う信心かといつも心にです、それを感じさせて頂けれる、思わず知らず心のそこから金光様有り難うございますとこういわなければおられないものがです、出来て来るような信心を頂きたいと思うんですね。
                                  どうぞ。